事前準備のポイント Point

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なぜ事前準備が必要なのか

通訳プロセスの第一段階は起点言語の内容と意図を理解することであり,学術手話通訳が難しいと言われる理由の1つとなっています。通訳能力は,起点言語と目標言語の両方における高度な言語運用能力(言語スキル) ,テーマやトピックスに関する知識理解,そして通訳における作業(通訳スキル)で構成されていますが,学術的な内容において起点言語の内容と意図を即座につかむには,言語スキルや通訳スキルがいかに高く,また通訳経験が豊富であったとしてもそれだけでは不十分です。(参考:学術手話通訳について
なぜならば,通訳プロセスの第一段階である「理解」(C: comprehension)は,「言語に関する知識」(KL:knowledge of language)「言語外の知識」(ELK:extra-linguistic knowledge),「分析」(A:analysis)の総和で成り立っており,「KL」,「ELK」,「A」はトレードオフの関係にあると言われています(Gile, 2009)(図1)。

図1 通訳プロセスにおける「理解」(comprehension)の構造(Gile, 2009)

通訳に臨むにあたって,「言語外の知識」をどう蓄えておくか,が鍵になります。

「言語外の知識」をどう得るか

「言語外の知識」には,「主題に関する知識」,「状況的知識」,「一般的知識」の3つの種類があります(表1)。

表1 「言語外の知識」の種類

主題に関する知識

手話通訳者はその分野の専門家でないことがほとんどだと思います。専門家になることを目指す必要はありません。通訳者に必要なのは,依頼を受けた通訳がきちんとこなせるようにするためのアドホックな知識です(図2)。慣れないうちは,いくら調べても次から次にわからないことが出てきて雲をつかむような状態で,いったいどこまでやればよいのか,アドホックな知識の範囲とはどこまでなのか,イメージしにくいと思われます。事前準備をしてから通訳に臨み,終わった後で,うまく訳出できたところ/できなかったところをしっかり振り返る…この繰り返しの中で,学術的内容に関しても,アドホックな知識の範囲がだんだんわかるようになってくるでしょう。

図2 通訳者が得るべき知識とは

また,学術手話通訳に関しては自身の通訳経験キャリアを過信しすぎないことも大切です。例えば,手話通訳者ならろう教育の問題をテーマにした研究会や集会の通訳を経験されている方も多いと思います。手話通訳者養成過程でも講義として学びます。けれども,同じろう教育がテーマであっても,博士論文発表会の通訳になると,そうした通訳経験で得た知識は,「一般的知識」の範疇でしかなく,全く太刀打ちできません。学術的内容の通訳依頼を受けたときは,「主題に関する知識」をしっかり得られるように,事前準備を怠らないようにする必要があります。

以下に,「主題に関する知識」を得るための具体的な方法をまとめました。

1. コーディネーターを通して演者・発表者から事前資料提供の要請を行います。事前準備はそれなりに時間を要します。資料提供が遅いときはただ待っているだけでなくコーディネーターに催促をしてもらうようにします。

2. 資料を読んで,わからない言葉や意味がつかめないところをピックアップします。資料にマーカーで印をつける,ノートに書き出すなどやりやすい方法で。

  • 一見,日常生活でよく聞くような言葉ですが,定義が異なる専門用語もあるので注意深くチェックします。
  • 外国語はわからないからとスルーせずに,きちんとピックアップしましょう。

3. ピックアップした用語や語句,文章について調べていきます。

  • 学術論文は,出所と著者がはっきりしており,他の文献からの引用と著者の考察(オリジナリティ)が明確に区別されて書かれているので信頼性の高い情報となります。下記のようなサイトから手軽に情報収集が行えます(ダウンロードは有料の論文も一部あり)。
    GooGle Sclholar:検索したい用語を入力するだけで,関連の論文が見つけられます。英語の論文も検索できます。
    https://scholar.google.co.jp/schhp?hl=ja&as_sdt=0,5
    J-STAGE:科学技術振興機構が運営する電子ジャーナルの無料公開システムです。
    https://www.jstage.jst.go.jp/browse/-char/ja
    用語や語句などの意味を調べるには,論文の「はじめに」「問題の所在」などのパートが役に立ちます。研究の本題的な部分に関しては,検索した論文に記されている引用文献,参考文献からからさらにたどって情報を収集していくことができます。
  • 大学の授業の通訳では,シラバスに記されている教科書や参考文献を入手して調べましょう。
  • インターネットでの検索による調べ作業は便利ですが,以下のことに注意しましょう。
    • 記事の書き手が誰か,どういう立場で書いているのかを確認します。信頼性が低いと思われる書き手の情報は利用しないようにしましょう。
    • 記事がアップされた年月を確認します。あまりに古いものは学説が変わっていることがあります。
    • 記事を読むときに,どこまでが学問的背景をふまえた客観的な話で,どこからが書き手の自由な考えなのかを注意しながら読むようにしましょう。
    • 研究者によって異なる学説や見解がないかを確認しましょう。

    →1つの用語や語句に対し,複数のサイトを見てみることが大切です。

  • 外国語やギリシャ文字,特殊な記号等については発音の仕方も調べておきます。外国語の語句や文章については,意味を調べるようにします。
    Google翻訳(https://translate.google.com/?hl=ja)を利用する方法もありますが,機械翻訳では誤訳が多く,おおよその雰囲気はなんとなくつかむことができても意味がわからないことが少なくありません。
    そのため,下記のようなスマホアプリを利用し,基礎的な単語を調べる手間を省いて,英文の意味をつかむことをお勧めします。
    ※専門用語については,別途調べる必要があります。
    英読(http://flip.ne.jp/e/eidoku/):
    中学2年〜大学卒業程度までレベルに応じて訳語を表示させることができるアプリ。変換結果を印刷することもできる。

4. 用語や語句などの意味がつかめたら,話の内容の流れを確認していきます。

  • パワーポイントの資料はポイントだけが記されていることがほとんどです。そこから話者がどういうメッセージを伝えようとしているのか,それを通訳者自ら説明できるくらいのレベルまでつかむようにしてください。
  • 図示されている内容,表やグラフの数値も1つ1つ確認し,そこからどんなことが言えるのかつかむようにしてください。統計解析を行っているデータについては,結果の読み取り方を学んでおくと話の内容がつかみやすくなります。
  • 話の結論やポイントは何かを探っていくようにします。
    → これらの作業では,資料に書き込みをするだけでなく,論旨展開を構造的につかめるように自分自身でフローや図式化をノートにまとめると,後述の訳出のイメージを作りやすくなります。
  • これらの過程でわからないことが出てきたら,再度調べます。それでもわからないことは演者との打ち合わせのときに確認します。

状況的知識

【学術研究大会等の通訳】

  • 学会のホームページ,大会の特設サイト等にアクセスし,下記の情報を得ます。サイトを見てもわからないことはコーディネーターを通して大会関係者に問い合わせます。
    → どういった人たちがどんな目的で集まる場なのか
    → 担当の発表形態,持ち時間は?
    → 通訳利用者の背景は?(どんな研究をしてきた人?どういったレジスターに照準を合わせて通訳する?)
  • 担当する発表やシンポジウム,講演については,発表者・演者等の提供する資料のみならず,その人がどんな研究活動を行っているのかについて調べます。
    researchmap : 科学技術振興機構が運営する研究者情報管理システム。研究者の名前を検索するとどんな論文や書籍等出版物を出しているのかわかります。
    https://researchmap.jp/search/
    また,研究者の所属機関の大学等で,研究者の教育・研究・社会貢献活動を公開していることがあります。

【大学の授業やゼミ等の通訳】

  • コーディネータを通して担当授業のシラバスを入手します。状況的知識として必要な情報がシラバスにはたくさん書かれています。
    → 対象学年・学部/学科は?(学部や学科に絞り込まれているときは専門科目である可能性が高い)
    → 学習目標は何か? 教員は受講生に何を身に着けさせようとしているのか?
    → どのような形態で行われるのか?(講義形式・グループワーク/ディスカッション・プレゼン・実習・実験等)
    → 教員は1人がすべての回を担当するのか,複数が持ち回りで担当するのか?
    → 教科書や配布資料はあるのか? 視聴覚教材の使用があるのか?
    → 各回,どのような内容の授業が行われるのか?
  • ゼミなどの場合は,その研究室で,誰がどんな研究を行っているのか調べます。研究室でホームページを公開していることもあります。そうしたページがない場合は,指導教員の研究について調べます。

一般的知識

日頃から新聞やニュースに触れたり,読書をするなど,幅広く知識の「引出し」を持つようにします。また,通訳を引き受けている分野に関して,知的好奇心をもちアンテナをはるようにしましょう。例えば,経済学の授業の通訳を引き受けたら,国内外の経済に関する時事問題を扱うテレビ番組やニュースを見ておくと,思わぬところで通訳に役に立つことがあります。

訳出の自動化トレーニングとプランニング

事前資料の内容をおおよそ理解するところまででかなりの時間を要することと思います。ここまできたらほっと一息…といきたいところですが,時間をかけて得た知識をスムーズな訳出につなげるためには,もうひと頑張りする必要があります。

訳出の自動化トレーニング

特に,専門用語やキーワード,必ず訳出するであろう語句・表現が対象となります。文字で見てすぐに認識できていても,手話で表されたものを読み取って音声に変えたり,音声で聞いたものを手話に変えようとすると,意外とスムーズにいきません。滑舌よく話せるように声に出して練習する,手話や指文字でよどみや間違いがなく表せるように練習することが大切です。
 例:ジスルフィド結合 → ジルスフィド結合? ジスルフィルド結合? とならないように。
また,要素数の多い複合語では,要素の順序が入れ替わったり,要素と要素の間が途切れて別々の単語として訳出することのないように,繰り返し練習します。
 例:科学技術振興機構 → 科学振興技術機構? とならないように。

訳出のプランニング

図3 訳出のプランニングにおけるポイント

1. 専門用語やキーワードをどう訳出するか

  • 専門用語やキーワードをどう訳出するか
  • 専門用語やキーワードは原語借用表現を用います。手話,指文字,マウジング等をどのように組み合わせて表すのか,わかりやすく表しやすい表現方法を決めておきます。
  • 専門用語やキーワードの中でよく似ているものを,どう表し分けるのか決めておきます。
  • 例:「派生接尾辞」「屈折接尾辞」
  • 頻出すると考えられる専門用語やキーワードについては,初出時の表し方,再出時の省略方法について決めておきます。訳出のたびに表現がコロコロと変わることのないようにします。

2. 日本手話特有の文法表現や空間配置をどのように使うか
内容に応じて,この話が出たときには,こういうCL表現を使う,Aを右手側,Bを左手側の位置と決めて訳出するといったように,手話の言語構造を活かした訳出表現を考えておきます。

3. 強調部分をどう示すのか
専門用語やキーワード,話の流れの中で話者が強調したいであろう部分について,強調をどのように表し分けるのか考えておきます(例:マウジングを特にはっきりつける,始点と終点の手の動きをゆっくりにする等)

4. 視覚資料をどう活かすか
近年では,大学の授業,学術講演・発表において,パワーポイントなどで作成したスライド資料を用いることが大変多くなっています。聴覚障害ユーザーに負担を与えず,効率的でわかりやすい訳出をするためには,耳から聞こえてきたまますべて手話に変えるのではなく,スライドで提示されている内容とうまく連携させた訳出が大切になります。

  • スライドが使用される場合は,どの話のところにどんな図や説明があるのか,起点テクストを聞いただけで即座に思い浮かぶように,頭に入れておきます(ここが一番大事!)
  • スライド内の文字の分量や提示されている図表から,聴覚障害ユーザーに,どれくらい読む時間を与える必要か見積もっておきます。スライド内の情報量が多いときは,なるべくスライドを使って通訳するようにします。
  • ポイントとなる図表や写真の説明では,スライドにある図を手話空間に再現させて表せるように練習します。

打ち合わせのポイント

学会や論文発表会の手話通訳では,コーディネーターを通じて,なるべく発表者に打ち合わせの時間をとってもらうように依頼します。なぜならば,提供された事前資料をいくら調べて読み解いても,それ以上に,その分野の研究者であるからこそわかっていること,共有されていることがたくさんあるからです(図4)。講演や発表よりもその後の質疑応答は,どのような質問が飛び出してくるのか予測ができず,通訳者にとって非常にハードルが高いのですが,これも打ち合わせを入念に行うことで質疑応答への対策ともなります。

図4 自己調べで理解到達が困難なことの例
  • 打ち合わせの時間は限られています。 与えられた時間を有効に使いましょう(図5)
図5 打ち合わせのポイント
  • 発表者は手話通訳者がその分野の専門家でないことはわかっていますので,「こんな簡単なことを聞いても大丈夫かしら…」と不安に思う必要はありません。ただ,明らかに少し調べればわかるようなことを調べてこないでなんでも聞けばよい,という姿勢は良い印象を持たれません。
  • 対等な立場で,かつ必要な時間内に通訳のための有益な情報が得られるように,問い方を工夫しましょう。
    例:
    • ◯◯は調べてみると,△△という定義とありましたが,そういう理解で合っているでしょうか?
    • ここで伝えたいことというのは,AとBが結合するとCという反応が起きるけれど,そういうタイプの結合や反応というのは,他にもDとかEがあるということでしょうか?
    • この統計検定の読み取り方で,ここに相関係数が0.423とありますが,この数字の意味するところはどういうことでしょうか?
    • このご講演を通して先生がもっとも強調したいことはどのようなことでしょうか。
    • この発表に関して,取り残された課題としてはどんなことがあげられますか。
    • この発表に関して,聴衆からはどんな質問がくると予想されますか。
  • 打ち合わせ時に相手の話し方のクセや特徴をつかんでおくようにします。早口,滑舌が悪い,語尾が不明瞭,話が突然変わりやすい…など,特徴をつかんでおけば,起点テクストとして音声を聞き取るときに注意資源を効率よく使うことができます。
  • 群馬大学手話サポーター養成プロジェクト室
  • 関西学院大学 手話言語研究センター
  • 学術手話通訳研修事業