学術手話通訳について About

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聴覚障害者の大学進学

学術性の高い場面で手話通訳を必要とするろう者は聴覚障害者全体からみれば一握りかもしれません。しかし,大学全入時代を背景に,大学に進学するろう者は増えつつあります。図1は,文部科学省の「学校基本調査」をもとに,1995〜2018年度における聴覚特別支援学校高等部卒業生の高等教育機関進学率をまとめたものです。聴覚特別支援学校高等部卒業生数はこの20年間で約35%減少しているのですが,大学進学者数はほぼ右肩上がりに増加しています。

図1 聴覚特別支援学校高等部卒業生の高等教育機関進学率

そして,学部卒業後,大学院に進学し,大学や企業等で研究者を目指すろう者も増えつつあります。専攻する分野も,文系から理系までありとあらゆる領域にまたがっています。

『平成29年度(2017年度)障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告書』(日本学生支援機構)によれば,聴覚言語障害学生支援を実施している315校のうち,手話通訳支援は,56校(15.6%)で提供されています。日本手話を第一言語とする聴覚特別支援学校の卒業者や,即時的やりとりを必要とする授業・ゼミ・実習など,ここで示されている数字以上に学術手話通訳の潜在的ニーズがあると予想されます。

ではなぜ,日本では高等教育機関を含む学術場面での手話通訳が普及しないのでしょうか。

1つは,欧米の先進国に比して日本の大学は障害学生支援に割く予算が低いことがあげられます。合理的配慮の提供にあたって人件費に占める割合が高い重度聴覚障害は,大学全体の障害学生支援経費の中でも高い配分がなされていることが多いのですが,それでも手話通訳を外部から派遣してもらうだけの予算が確保できないことも多々あります。

そしてもう1つの問題が,高等教育に対応できるスキルをもつ手話通訳者の絶対的な不足です。その背景として,日本では教育市場における手話通訳利用は想定されてこなかったこと,ろう者の生活保障を目的としたボランティア色の強い手話通訳養成・派遣の制度システムとなっていることがあげられます。日本では,高等教育機関における手話通訳養成がほぼ皆無となっています。そのため首都圏を除いて,大学の障害学生支援や研究活動における手話通訳も地域の手話通訳資源を頼る他ないのですが,障害者差別解消法の施行,手話言語条例の制定等により,地域の手話通訳ニーズもますます高まっています。

後述するように,学術手話通訳のスキルと一般の手話通訳のスキルは共通する部分があります。限られた手話通訳人材資源を地域と高等教育機関で取り合うのではなく,多様な現場での通訳経験や研修を通して,お互いに通訳者のスキルの全体的な向上に貢献し合うことが大切です。その意味で,大学の障害学生支援室として,ただ地域の派遣団体に派遣を依頼して大学で手話通訳を利用するだけでなく,研修やスキルアップフォローを含めたサポートをしていくことが必要だと考えています。本サイトがそうした研修のお役に立つことができれば幸いです。

学術手話通訳とは

みなさんは学術手話通訳と聞いて,どのようなイメージを持たれるでしょうか。ここでは,学術手話通訳を「特定の専門分野において共有される知識や概念,理論等に基づいて伝達される発話や議論の手話通訳」と定義づけたいと思います。具体的に,特定の専門分野において共有されているものの例を図2に示します。

図2

レジスターは,「言語使用域」「位相」などと言われるものですが,特定の目的や社会的場面に合わせて言葉の使い方が変わることを言います。一般的な通訳では言語間,言語使用者間の文化的な差異を考慮する必要があるとされていますが,学術通訳では,同じ専門分野同士で共有されるレジスターに忠実であることのほうが優先されることになります。学術手話通訳においては,利用者であるろう者もまたその専門分野で使用される用語や表現,文化を共有しているわけで,手話通訳者が専門用語を他の表現に変えたり解説的に述べたり,そこで述べられている内容を省略し簡便にして訳出するのは不適切ということになります。

学術手話通訳に必要なスキルとは

通訳能力は,①受容作業言語の優れた受動的知識,②能動作業言語の高い運用力,③訳出するテーマやトピックに関する十分な世界知識,④通訳についての宣言的知識と手続き的知識,の4つの要素によって決定されると言われています(Gile, 2009)。図3は,通訳のプロセスを表しています(Seleskovitch,1978; Jones,2002)。

図3 通訳のプロセス

学術手話通訳の難しさは通訳プロセスの最初のaの段階,すなわち言語テクストを(見)聞きして内容と意図を理解することにあります。通訳作業過程において,起点テクストの内容と意図を瞬時につかむためには,Gileが言うところの③の世界知識を蓄積しておかなければなりません。提供された資料をただ読むだけでは訳出の際に「使える」知識とはなりません。どのように資料や関連文献を収集してどのように調べるのか,どのように読みこなして訳出のイメージを形成するのか,そして事前打合せでどのような質問をし,内容の確認をするのか,といった事前準備のノウハウを身につけることが大切になります。

そしてもう1つ,学術手話通訳でも一般の通訳でも共通ですが,Gileの言うところの①や②,すなわち起点言語目標言語の両方における高い言語運用能力が求められます。このうち,ほとんどの手話通訳者にとってハードルが高いのは成人後に習得した手話言語のスキルを伸ばすことです。実際に,訳出スキルに比較して手話言語スキル,特に文法スキルの低さが指摘されています(Taylor, 1993・2000;Schick et al., 1999;中野他,2018など)。しかし,後述するように学術手話通訳において,日本手話の要素は必要不可欠です。ネイティブのように日本手話を使いこなすのは難しくとも,日本手話独特の文法や表現方法を学び,本サイトでネイティブの通訳表現を見て手話言語スキルの研鑽に取り組んでください。

学術手話通訳に日本手話の要素が必要な理由

大学に入学するくらいのろう者なら,書記日本語の能力が高いので手指日本語(日本語対応手話)の方が適しているのではないかとよく言われます。確かに,大学に入学してから手話の学習を始めたばかりのろう学生や聴覚を活用しながら補助的に手話を使用する難聴学生では,手指日本語寄りの手話通訳の方がわかりやすいというケースもあります。そのため,個々の利用者に合わせた手話の使い分けは大変重要です。しかし,聴覚活用がほとんど有効ではないろう学生の場合は,学年を重ねるに従って好みの手話通訳のタイプが変化していくことが多いようです。学術手話通訳では,専門用語や概念,論理構造等を正確に,かつ理解しやすく訳出する必要があります。このため,専門用語を音声言語に沿って直訳的に表現しつつ,内容は手話言語特有の言語形式で意訳的に訳出することを好む聴覚障害学生が多く(Napier, 2002),専門性が高い大学院生になるほどその傾向は強くなる(吉川他, 2011)と言われています。これはどういうことかというと,専門用語は原語がわかるように指文字やマウジング等を使って訳出し,概念や論理構造については日本語の語順ではなく,日本手話特有の文法や表現を使って訳出してほしいということです。もともと,重度の聴覚障害者は手話を使用する/しないに関わらず,視覚優位の認知処理タイプが多いのです。例えば,「AよりBが多い」を,「A/より/B/多い」と日本語の語順に従って手話単語を並べて継時的に表すより,片方の手でA,もう片方の手でB,その差異を同時に図的に表すほうがすっと頭に入ってきます。そして後者が日本手話の表し方です。日本手話は視覚−空間言語として無駄のない理にかなった言語構造となっています。大学の授業場面において手指英語を利用しているろう学生であってもASL通訳のほうが内容に対する理解度が高かったという研究報告がある(Murphy and Fleischer, 1976)のですが,それもなるほどと思えます。話の内容が複雑になればなるほど,訳出には日本手話の要素が必要なのです。

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