本セミナーでは,学会のポスター発表を題材にして,事前準備と打ち合わせの行い方について学んだあと,ポスター発表場面の手話通訳実技を行います。
事前準備の行い方
【資料の読み方】
学会発表では,発表論文集や予稿集に掲載された資料と,当日の発表用資料の2つが事前資料として提供されることが多いかと思います。これらの資料からどのようにとっかかりをつかんで読み込んでいくかは,自分にとってやりやすい方法・順序で進めていただいてかまいません。
講師(飯泉)の読み方を一例としてご紹介します。発表者の原稿提出の順序としては,発表論文集や予稿集の原稿がまずあって,その次に当日資料となるわけですので,この順序に従って読むようにします。アブストラクトとポスターの相違点,どちらか片方にしか書かれていないこと,表現が違う部分,ポスターを見ただけでは分からない部分は何か,に注目します。質問項目を書き出し,一覧にまとめるとともに,資料の関連部分にマークをつけておきます。
このときに,ポスターなどの資料を拡大コピーすると,メモなどを書き込むスペースが大きくとれるので便利です。別途,自分自身でノートにまとめたり資料を作成したりするかどうかは,準備時間をどれくらいとれるかなど,ケースバイケースで判断をしてください。
ボリュームのある資料の場合は,専門用語一覧を作ってパートナーと共有したり,パートナー同士の間で分担して調べていくのも1つの手かと思います。
共同研究者の氏名や,所属先の固有名詞などを確認し,読みにくいものにはルビをふっておいてください。
事前学習での注意点
1. 資料にかかれている内容をつかんでおく
研究発表や論文といった学術資料は,物語のように余韻を味わったり情緒的な表現といった「かざり」ことばは全くありません。無駄なものは一切なく,必要なことだけが書かれていると思ってください。ですから,少しでも気になった部分はすべて調べておくことが大切です。特に,日常会話の中でよく使用されているような語や表現が,学術的文脈の中では定義や意味が違うといったこともあるので要注意です。
もう1つ,注意しなければならないこととして,何のために,それを調べたり,資料に書き込んだり,ノートにまとめたりしているのか,という目的がぶれないようにしなければなりません。難解な内容を読み解いていくにはそれなりに時間を要しますし,それが少しずつ見えてくると,達成感を味わうことができます。けれども,事前準備の目的は通訳者自身の勉強ではなく,通訳としてその内容を正確にわかりやすく訳出することにあります。例えば,今回のポスター発表のタイトルにもある「Vineland-II 適応行動尺度」という用語。どういった階層構造になっている尺度なのか調べて内容まで把握していたとしても,話者から発される「Vineland-II 適応行動尺度」という起点テクストを聞いて,「バインランド」という指文字がスムーズに出せない,聞き漏らして,「バ…バ…バイン…尺度」と脱落した訳出になっているようでは,事前準備で一生懸命調べたことも水の泡になってしまいます。文字で読んだり書いたりして覚えることと,手話として表出できることは,また別です。内容を把握したあと,専門用語やキーワードといった用語については,スムーズに手話で表出できるようにしておかなければなりません。
2. 訳出の「計画」「イメージ」をつくる
手話通訳というのは,言語変換であって,単語を音声から手指に置き換えるモード変換とは異なります。言語が違えば同じ意味・同じ内容のテクストでも表出にかかる時間や表出表現は当然異なってきます。何も事前情報がないところで,通訳作業過程において2つの言語の違いをふまえた訳出をするというのはかなり無理があるでしょう。そのための事前資料であり,事前準備であるわけです。ですから,事前資料の内容をいろいろと調べて把握できたら次の段階として,その内容をどのように目標言語で表現するか,ということを「計画」「イメージ」することが大切です。
ここでは2つのポイントを話したいと思います。
1つは,専門用語やキーワードなど,長たらしく表出しづらいにもかかわらず,頻出する用語をどうするか,ということです。初出では,指文字やマウジング,漢字借用等によりすべて表出する,そして暫定的に省略表現を決めて,2回目以降は省略形を用いる,などの工夫が必要です。このような計画ができていないと,初出から通訳者自身にしか認識できないような脱落した表出になったり,同じ専門用語を表しているにもかかわらず,表出するたびに表現が異なったりする,といった通訳となって,通訳の受け手が混乱してしまいます。
もう1つは,手話言語の視覚-空間的特性に応じた表現にどう変換するか,ということです。起点テクストの話の構造,「Aという原因があってBという結果が生じる」,「Aという上位階層からB,C,Dという下位階層に分かれる」,「AからBもしくはC,そしてBからさらにD,CからEというフローになっている」,「Aという項目について,具体的にはB,C,D, Eのことが言える」,などといった構造性を,語順や空間配置によってわかりやすく表出する方法を考えておきます。このような構造が図としてスライド資料の中で示されている場合は,その図を手話空間上に再現させつつ訳出できるように計画するとよいでしょう。
また,学術手話通訳では分野によってはグラフや表を使った談話が頻出します。グラフの座標軸のラベルや表の項目,数値が示す特徴などを,写真のネガのようにインプットさせておき,手話空間上に再現させつつ訳出できるように準備しておきます。
3. 通訳にかかわる周辺情報を収集しておく
1と2では,発表内容に関する事前準備について述べましたが,発表にかかわる周辺情報も通訳を行ううえで非常に重要です。
広範囲のことでいえば,その発表が行われる学会はどのような特徴をもった学会なのか−大会会期中にどのようなプログラムがあるのか,専門分野に応じてどのようなグループや部会に分かれているのか,参加者層は研究者だけなのか現場での実践者なども来るのか,といったことがこれにあたります。特に参加者層に関する情報は,どのような立場の人からどういった質問が来るだろうと想定するのに役立つでしょう。
次のレベルとして,どのような発表の形式があるのか,自分が担当する発表の形式の詳細はどうなっているかということです。ポスター発表ならば,着席時間といったものが決められていることもあります。
最後に,これは内容に関わる事前準備の中で行われることになるかもしれませんが,自分が担当する通訳の発表者や共同研究者,シンポの登壇者に関する情報もしっかり調べておきます。発表者や共同研究者,登壇者がこれまでにどのような研究・事業・活動を行ってきたのかといったことです。これらは,研究者が取り組んでいる研究テーマの一連の流れの中で当該発表がどのような位置づけにあるのか理解したり,その研究者に当該シンポジウムでの登壇の依頼がかかった背景を理解したり,どのような人々がその発表やシンポジウムに関心をもっていて参加が見込まれ,どのような質問がありそうか,といったことの予測につながります。
「事前学習課題」ワークシートから:用語の抜き出しと理解
ここからは,みなさんに宿題としてやってきていただいた「事前学習課題」の解答を全員で確認しながら進めていきたいと思います。
本来でしたら,通訳者に事前に提供されるのは,発表論文集に掲載された要旨と,当日掲示するポスターの2つの資料で,みなさんはここから,この事前学習課題の設問を自分自身で調べる必要がある内容として導き出していく必要があります。
今回はこんなところからとっかかりを作っていくというイメージをもってもらうために,こちらで設問を用意しました。
まず,専門用語やキーワードの抜き出しと定義や概念・内容の把握が必要です。調べる必要があるだろう用語をすべて抜き出せているでしょうか。グループで確認してみてください。
次に,それぞれの専門用語やキーワードの定義や概念・内容について確認をします。今回のポスター発表で使用されている用語について,いくつかのポイントを解説します。
- Vineland-II適応行動尺度の尺度構成について理解しておかなければなりません。ポスターには,児童自立支援施設群,児童養護施設群,HFASD群,ADHD群のVinland-II得点を表にまとめて示していますが,ここでは同尺度の下位項目しか書かれていません。ですから,それぞれの下位領域の項目を見たときに,その上位項目は何なのか,ぱっと思い浮かぶように理解しておく必要があります。例えば,「受容言語」「表出言語」「読み書き」の上位項目は「コミュニケーション」になります。
- HFASD,ADHDといった頭字語(アルファベットの略語)が頻出しますが,これを意味もわからずにアルファベットの並びだけで覚えようとするのはやめましょう。HFASDがHAFDSになったりH…SDになったりといった誤訳につながります。High- Functioning Autism Spectrum Disorders(高機能自閉症スペクトラム障害)と,頭文字がどういった単語から拾われているのか,どういう意味なのかを把握しておくようにします。
- ポスターをよく読むと,「HFASD」=「知的障害のない自閉症スペクトラム障害」=「高機能自閉症スペクトラム障害」,「ADHD」=「注意欠陥多動障害」ということがわかります。表記や表現が異なっても同じ意味をもつ同義語だということをしっかり理解しておかないと,訳出するうえで誤訳や意味がよくわからない訳出につながってしまいます。このような同義語では,コンテクストによっては,手話として表しやすい表現に統一させることも可能ですが,本当に同義語として扱ってよいのか,発表者が特別な意味をこめて使い分けているのかは,発表者に直接確認する必要があります。
- 学術用語の定義や概念,理論や解釈は時代とともに変化します。このあたりは当該専門分野の研究者でないと,いつどの時点でどのように変化したのか把握はかなり難しいと思われます。インターネットなどで調べていて,「あれ?」と思うようなことがあったら,打ち合わせのときに発表者に確認してください。
「事前学習課題」ワークシートから:発表内容を覚え込ませる
先ほど述べたように,用語の理解から入って発表内容を理解する,頭の中にたたきこむ,手話通訳の際にスムーズに出せるようにする,といった作業が必要です。このポスターをみるとはっきりわかるのは,Table 1(表1)が研究結果を示していて,発表の際に,必ずこの表を用いてやりとりがなされるだろうということです。ですから,表の縦の項目はVineland-IIの下位項目が示されていますが,どのような下位項目がどのあたりに並んでいるのか,どの下位項目が1つ上位項目のもとグルーピングされるのかといったこと,そして横の項目には比較する群が示されていますが,4つの群がどういう並び順序で示されているのかといったこと,そしてそれらの結果の特徴は,どの数値にどのように現れているのか,目をつむっていても空間上にそれらを描けるようにしておかなければなりません。そうすれば,その結果に言及されたときに,該当する数値のある位置をパッと指さししながら訳出することができます。通訳をしながら,それらの数値の箇所を探しているようでは,どんどん話が進んでいってしまい,通訳者自身がなんのことやらよくわからないまま聞こえてきた数値や言葉だけを手話単語で出すということになってしまいかねません。それは,通訳の受け手にとっても意味不明なものでしかありません。
「事前学習課題」ワークシートから:論旨展開をつかむ
語彙レベルの確認・理解を終えた次の段階として,全体の論旨展開の流れをきちんとつかむという作業をしなければなりません。研究には 背景・目的・方法・結果・考察(結論)という流れが必ずありますので,資料を読んでいって,こことここのつながりはどうなっているのだろう?,と思ったことについては,打合わせで確認するために,箇条書きにしてまとめておくようにしましょう。
打ち合わせの行い方
打合わせにおけるポイントを3点に絞って述べたいと思います。
打合せ時間を意識する
学会に情報保障コーディネーターが配置されている場合は,コーディネーターが発表者との打合せ時間をセッティングしてくれることもあります。とはいえ,打合せの時間は無限にあるわけでなく,5分,10分ということも少なくありません。打合せ時間は限られているということを念頭において,打合せのための準備を行ってください。
まず,自分で調べられることはなるべく事前に調べて把握しておくことです。明らかにキーワードとして頻出するであろう用語などを全く調べないで発表者に聞けばよい,というのは論外でしょう。
与えられた打合せ時間に応じて,質問の量や内容を調整して質問項目を整理しておきます。質問項目に優先順位をつけておくと,打合せ時間を有効に使うことができます。
通訳にとって必要な情報を考える
日常的に手話通訳をよく利用するようなごく一部の発表者を除いて,専門分野を問わず,発表者は手話通訳の通訳作業とはどのようなものかよく知りませんし,手話通訳者が発表者の発表内容に関してどの程度の知識を有しているのか,通訳の上でどういった情報提供やブリーフィングが必要なのか,わかりません。したがって,打合せでイニシアチブをとるのは通訳者自身だと思ってください。
通訳にとって必要な情報としては,発表内容そのものに関わる(学術的)理解とそれ以外のものに分けられるかと思います。
特に学術的内容に関わることについては,「これがわかっていないと意味をとらえた訳出ができない」という範囲は何か,ということを通訳者があらかじめ整理しておく必要があります。通訳者のみなさんはその専門分野の研究者ではありませんし,研究者と同等レベルの理解をする必要もありません。
学術的内容以外の必要情報としては,例えば,ポスター発表ならば,「どの部分に重きをおいて時間をとって話すのか」, 「全体の流れにおける時間配分はどう予定しているか」,「(重要そうだと思われる)図表についてどのように説明をする予定なのか」,「資料にないエピソードや例,補足説明があるかどうか」,「どのような質問がありそうか」,といったようなことが考えられます。
限られた時間の中で通訳に必要な情報を発表者から引き出すにはコミュニケーションスキルも大切です。「わからないので教えてください」や「説明して下さい」というような聞き方では,「こんな人が通訳して大丈夫なんだろうか」と心配になりかねませんし,いったいどのレベルから説明をすればよいのかわかりません。最初から最後までちゃんと説明しようとしたら1時間やそこらで終わりません,というようなことにもなりかねません。質問はオープン/クローズ,どちらの形式でもかまわないのですが,自分で調べて把握していること,自分なりに見積もっているポイントなどを確認していくようなやりとりで打合せを進めるとよいでしょう。
学術的内容に関する把握
2.で述べた学術的内容に関わる理解に関する部分ですが,どんなに事前準備で調べ尽くしてみても到達困難という内容を上記スライドにあげています。ここにあげていることは学術研究論文の査読ポイントでもあります。つまり,発表資料を読んでこれらのことがわかるのなら,その専門分野で学術研究論文を執筆することができる=研究者レベルの内容ということです。学術研究発表における質疑応答の通訳の難易度が高い理由の1つとして,これらを質問をする方も応答する方も暗黙のうちに了解しあっているということがあります。ですので,ここにかかげたようなことについては,打合せで積極的に確認していくとよいでしょう。
発表者の話し方の特徴をつかむ
打合せの際の相手の話し方もさりげなく観察しておきましょう。
もちろん実際の発表になったら,がらりと話し方が変わるという人もいるとは思いますが,ある程度話し方の特徴をつかんでおくことで,通訳の際にうっかり聞きもらすといったことを防止できるかと思います。
発表者は手話通訳のことを知らないという前提で
今回,講師(望月)は発表者役ということでこのセミナーに参加しているのですが,ふだん学術的研究に関わる場面で手話通訳を利用することは全くないので,通訳者との打ち合わせというのも,ほぼ初体験です。ほとんどの研究者は私と同じような状況にあるだろうと思います。
手話通訳者の方は,打ち合わせをする相手が,手話通訳のことを何も知らないという前提で打ち合わせに臨んでいただきたいと思います。なぜ打ち合わせが必要なのか,打ち合わせでどのようなことについて確認しようとしているのかといったことを最初に話していただけると,発表者の方も,どのようなスタンスで,どういったことを特に丁寧に説明したり情報提供をしなければならないのかがイメージできるので,打ち合わせを円滑に進めやすくなります。
質問の仕方については,オープン/クローズ,どちらの問いかけ方でもかまわないのですが,相手の答え方の状況に合わせて,通訳として必要だと思う情報をうまく引き出せるようにコミュニケーションをとってもらえたらと思います。
また,Vineland-II適応行動尺度については,特に手話通訳者の方から質問がありませんでしたので,あらかじめ勉強されているのだなということはわかったのですが,本尺度は今回のポスター発表の中では最も重要なキーワードですし,頻出するのは必須だとわかると思います。研究者としては,こうした重要な部分は,通訳者の方がきちんと正確に概念や内容を把握されているのかどうか気になるところですので,ご自身で理解していると思われていても,打ち合わせの場で発表者に直接確認していただけると,より安心できます。
誰から情報を収集するか
学会などの大きな大会では情報保障コーディネーターが配置されていることがあります。発表そのものについては,当然ながら発表者に打ち合わせで確認することになりますが,それ以外の情報,例えばポスター発表とはどのような進行,やり方になっているのかといったことなどを発表者に聞くのは適切とは言えません。コーディネーターがいればコーディネーターに,いなければ事務局に問い合わせるようにしてください。
訳出上の留意事項—通訳実技から
では,これまでに事前準備や打ち合わせで得た知識・情報をふまえて,実際のポスター発表場面の通訳を行っていただきます。
グループの代表の方に通訳表出をしていただいたあと,講師からコメントをさせていただきます。
頭字語の表出
「事前準備の行い方」で述べたように,HFASD,ADHDといった頭字語は今回の発表でキーワードですので,どのようにわかりやすくスムーズに表出するか,という計画と表出の練習をしておくとよかったかと思います。
さらには,IQ,S-M,(高機能)ASDといった頭字語も出てきました。このように,学術手話通訳の場面では,頭字語を用いた専門用語が頻出します。日本では,両手を使って,A,B,C,D…とアルファベットを表現するやり方がありますが,学術手話通訳場面では,このやり方をしていると訳出がどんどん遅れていってしまいます。通訳の受け手のろう者がよく知っているのであれば,ASLの指文字を使用したほうがよいでしょう。
また,ASD,ADHD…と,どちらもAから始まる頭字語ですが,ごにょごにょ,そそくさと表出してしまうと,通訳の受け手にはどちらのことを言っているのか読み取れません。区別をしっかりつけないとわかりにくい部分を意識し,少し速度を落とす,短い静止をいれるといった表出を心がけてください。
スライドを直接指差しできない場合
ポスターを大勢の人々が取り囲んでいると通訳のベストポジションがとれず,ポスターの該当箇所を直接指差しできないときがあります。
そういったときは,ポスターに示されている図表を,通訳者のサイニングスペース内に再現させる形で通訳を行います。図表を再現させるためには,図表の詳細,そのデータが表している特徴などを覚えこんでおかなければなりません。
専門用語の訳出
この場面では,テクニカルタームが頻出しています。学術手話通訳のうえでテクニカルタームは原語のまましっかりと伝わるように訳出しなければなりません。ただし,それは,「Vineland-II適応行動尺度」などの長たらしいテクニカルタームを毎回すべて表出しなければならないというわけではありません。毎回すべて表出しようとすれば,訳出が追いついていきませんので。そういった場合は,「その場ルール」を設けて,マウジングや指文字で適宜補いつつ,テクニカルタームが原語のまま通訳の受け手に伝わるようにします。
ポスターの指差しタイミング
今回はポスター発表なので,もっとポスターに示されている情報を活用した訳出をしてほしいと思います。例えば,対象は,児童自立支援施設群,児童用語施設群,HFASD群,ADHD群の4つあるわけですが,表の該当箇所をしっかりと指さしてほしいと思います。
ポスターを大勢の人々が取り囲んで発表者とやりとりをしていると通訳者が直接ポスターを指差しできないということもありますが,そのあたりは臨機応変に対応できるとよいでしょう。
また発表者自身がポスターを指差ししながら説明していたりすると,通訳表出における指差しと「かぶって」しまうこともあるんじゃないか,と思われるかもしれません。そういったときには,発表者の指差しを通訳の中でうまく活用する,つまり,「ほら,ここに注目して」というふうに,発表者が指さしているところに通訳の受け手の目線を誘導させてその箇所を読みとる時間を与えたあとで,通訳を行うと,わかりやすい訳出になります。
文の前後の流れをとらえる
この方の通訳は,文章がずっと脈絡なくつながっていくようで,話の流れがつかみにくくなっています。書記言語と異なり,会話のやりとりというのは語用論的なもの,つまり言語の他に非言語的情報もあって,意味や意図が伝わり成立します。例えば,実際の発表者の発話では,「児童自立支援施設というのはごぞんじ… あ,はい,で適応行動尺度というのは…」というふうに話が続くのですが,これは,相手がうなずきなどで児童自立支援施設のことは知っていると返したので,次の話題に切り替わっていっているわけですね。この,言語として現れていない部分を通訳として含めなければ,文が完結せず,その次に続く文とつながって,意味がわからない訳出になってしまいます。「児童自立支援施設は…あ,ご存知なのですね。「では」(話題の転換を伝える手話単語を挿入),次に適応行動尺度なんですけれど…」というように訳出する必要があります。
日本語と日本手話の意味の違いをとらえる
「4つの対象群について適応行動をみました」という発表者の発話が出てきます。この「みる」ということばの意味をよく考える必要があります。この通訳者の方は,「見る」という手話単語を使われていましたが,この文脈で「見る」を使うと,日本手話では行動そのものを観察するといったような意味合いになってきます。けれど,今回は行動を観察するのではなく,Vineland-II適応行動尺度を使って,4つの群の適応行動の状況を調べるという意味ですから,「評価する」「調べる」といった手話単語が適切だと考えられます。
このように,日本語と日本手話では一見同じ意味の単語をあてはめられそうにみえて,そうではないということがありますので,文意をよくつかみ,日本手話に合った単語を選択するようにしてください。
ポスター通訳に対するコメント
ナマの学術手話通訳場面では,どんなに事前に調べ尽くしていても,知らない用語が出てくることも少なくありません。今回も,S-M社会生活能力検査を指す「S-M尺度」という用語がいきなり出てきました。この通訳者の方がここを落とさずに訳出できたのは大変すばらしいと思います。ただ,このことで動揺してしまったのもあるかもしれないんですが,肝心の研究の背景,つまり,なぜVineland-II適応行動尺度を使用したのかというところの話の流れがつかめておらず,日本ではS-M尺度が使われているけれど国際的に比較できる尺度ではないこと,またこれも日本で重視されているがIQでは発達障害の生活の困難さが必ずしも測定できるわけでないことから,Vineland-IIが最適とする論旨が訳出からみえてきません。通訳の受け手には,「S-M尺度,IQ,そしてVineland-II…と,なんかいろいろな尺度の名前が出てきたみたいだな…」くらいしかつかめない訳出になってしまっています。研究の背景をつかんでおくというのは事前準備段階や打ち合わせ段階である程度対応できることですね。そこでS-M尺度の話が出てくるかどうかはさだかでありませんが,「なぜvineland-IIを使用されたのでしょうか」というのは打ち合わせで確認しておくとよかったかもしれません。
次に結果について説明をしている場面の通訳についてコメントします。
ポスター発表というのは,ポスターの前に立ってやりとりするわけですから,ポスターをどのくらい多くの人が取り囲んでいるのかといった状況に左右されるものの,講演のスライドなどと違って,直接ポスターの該当箇所を指さしたりできる機会が多いわけです。そのようにすることで,長たらしい専門用語をいちいち手話で表現せずに指差ししながら訳出するなど,「省力化」をうまく行うことができます。
そして,結果の解説ですから,どの群とどの群を比較して述べているのか,ここについては決して脱落させてはなりませんし,明確に伝わるように訳出しなければなりません。このときにポスターの表のどの群のことなのか,直接表の該当箇所を指さしたり,4本指をたてて表の何番目の群なのかを示したりするといった訳出をすると,よりわかりやすくなっただろうと思います。
非手指要素の表出について
今の通訳者の方の表現は,全体的に口形が伴いすぎていてノイズになってしまっているように思います。特に「〜のため」というところが,何度も強調されて「タメ」「タメ」「タメ」…と,本来強調しなければならない専門用語やキーワードの部分よりも,「タメ」がうるさく目についてしまっています。
日本手話の文法・表現形式としての口形には,日本手話の文法としての「マウスジェスチャー」,そして,日本手話にない語,学術手話通訳なら専門用語などですね,これらを原語から借用するために原語の音を口形で伝える「マウジング」の2つがあります。
学術手話通訳では,原語借用が非常に多く生起しますので,マウジングが多用される傾向にあります。しかし,それは訳出文全体に日本語の口形をつければよいということではありません。日本語の口形をつけなければ伝わらないものや特に強調して伝えなければならない部分にのみ,口形を使うようにしてください。
また,日本手話は手指の他にNMを使って表現されるわけですが,今回の通訳者の方の表現は,日本手話の文法としてのNMではなく,通訳者自身の感情表現が多く含まれていたように思います。発表者の様子は冷静に落ち着いた雰囲気で閲覧者とやりとりされているのですが,通訳をみると発表者が明るく元気に話されている方なのかなと思ってしまいます。発表者と通訳者の雰囲気に大きなズレがあるわけです。こうしたあたりも留意する必要があります。