サイト制作者からのメッセージ Message

  • TOP
  • サイト制作者からのメッセージ

中野 聡子Satoko Nakano

大阪大学キャンパスライフ健康支援センター講師, 群馬大学教育学部客員教授,博士(心身障害学)
岐阜県生まれ。5歳のとき,高熱により聴力低下が始まる。大学入学を機に手話を習得し,それ以降,手話はなくてはならないものとなっている。
現在は大阪大学において関連部署と連携しながら,聴覚障害をはじめとする身体障害学生の修学支援に取り組んでいる。
手話に関連した著書に,「聾教育の脱構築」(共著,2001),「大人の手話・子どもの手話―手話にみる空間認知の発達」(2002),「手話による教養大学の挑戦」(共著,2017)

事件

高校に入学したばかりの4月のことでした。

5歳の時から少しずつ聴力が落ちていった私は,高校の頃になると授業での聞き取りやコミュニケーションは,かなり難しくなっていました。
教科書は新学期が始まる前にすべて目を通し,おおよその内容は頭にたたきこんでおいて,授業では既知のこととして先生の話を「理解」し,父を家庭教師代わりにして質問や復習につきあってもらうのが,私の勉強方法でした。さて,新学期初めての生物の授業の日。どんな先生かなあと期待に胸をふくらませていたところ,教室にやってきた先生は,おもむろに話し始めました。

……え?何?全く教科書に載っていない!いったい何の話?

黒板に書きなぐられた「エントロピー」という文字と,その言葉が教科書のどこかに載っていないかとページを繰って探す自分の指のふるえが,まるで昨日のことのように記憶に残っています。

そして,教科書に載っているような話は一切なく,授業が終了しました。

私は会社から帰宅した父に,今日の生物の授業がまったくわからなかったことを切々と訴えました。それまで部分的にわからなくて父に教えを請うことはあっても,授業まるごと全部わからなかったなどというのは初めてでした。父もまさかそんなことがあるわけないと笑い飛ばして,取り合ってくれませんでした。

情報化社会以前の時代でしたから,インターネットで調べるというようなこともできませんでした。生物が毎回こんなふうに教科書を使わない授業だったらどうしよう,みんなから私だけどんどん遅れていってしまう…,それを父にわかってもらえなければ絶望しか残りません。

私は泣きながら家を飛び出し,真っ暗な田舎道をあてどなく歩き回ったあと公園で所在なくぶらんこを揺らしていました。

ふと気づくと父が立っていました。

「家に帰ろう。父さんが教えてやるから大丈夫だ。」

父は書斎から大学時代の教科書や収集した書籍を引っぱりだしてきて,「エントロピーとは…」と丁寧に図を書きながら教えてくれました。果たして授業でそういう話だったのかどうか,何か違うような気もして不安が完全に払拭されたわけではなかったのですが,父がきちんと受け止めてくれたということだけで満足でした。

いま思うに,生物の先生は,エントロピーという言葉を使って,生命や人間社会の活動が一連のサイクルのなかにあること,その秩序だった世界の美しさ,おもしろさといったものを生徒に伝えようとされていたのではないかと想像しています。もしあのときになんらかの手段で先生の話を「聞く」ことができたら,きっと生物学という学問の世界に心ふるえるほど惹きつけられていたかもしれません。「知」に親しむ喜びとはまさにこのようなことでしょう。

そして,この小さな家出事件は,大学に入学したら自学自習をベースとした受験対策的な勉強ではやっていけないということを予兆するできごとでもありました。

出会い

大学の授業は,内容も進め方も環境も,高校までとは全く異なっており,ありとあらゆる補聴支援を試しても授業を聞きとることは難しく,授業が聞こえる学生と同等に受けられると確信できた唯一の手段が手話通訳でした。

当時の日本では,手話は言語として不完全なものであり,コミュニケーションとして手話を使うのはよくても高度で専門的な内容を手話で表すことはできず,学習言語たりえないと言われていました。そして,大学に入学できるほどのろう者ならば日本語が十分にできるので手話を使う必要はなく,聴覚口話法だけでやっていけるはずだと考えられていました。
けれどもそうした聾教育の専門家のことばと裏腹に,目の前で大学の授業がきちんと伝わるように手話通訳されている現実がありました。特に手話通訳が力を発揮したのは,ゼミなどの研究ディスカッションです。研究者を目指そうと決めていた私は,学部3年生のときからゼミに参加していたのですが,大学院生が行っている研究のデザイン,結果の分析,考察の仕方など,教員からの質問や指摘,解釈の違いなど,手話通訳を通して目の当たりにしながら研究スキルを習得していきました。関連学会の参加や発表も手話通訳がなくては成り立ちませんでした。現在は合理的配慮として,ろう者から要請があれば手話通訳を配置する学会も少しずつ増えてきましたが,当時は,手話ができる学会員がボランティアで行ってくれていました。
このように,大学・大学院における修学のうえでも,研究活動を行ううえでも,私にとって手話通訳はなくてはならないものでした。

決心

大学院を修了し,首都圏の大学で専属の手話通訳者を配置していただいて数年間仕事をしたあと,地方の大学に赴任することになりました。そのとき真っ先に考えなければならないのが手話通訳のことでした。学術的場面の手話通訳にスキルとノウハウをもつ方はほぼ皆無で,学生ではなく大学教員として行う教育,研究,その他の業務に手話通訳の依頼があったのもその地域では初めてということでした。授業や学生・教職員とのやりとり,研究に関わるディスカッション…。これらは,なにげない会話であっても暗黙知として共有されている理論やモデルが背景にあったりするなどして,手話通訳士の資格をもっているからといって通訳ができるわけではありません。
相談に訪れた手話通訳派遣事務所の方に,通訳を使う場面やどのような通訳者を紹介いただきたいのかなどをお伝えしながら,私自身,学術手話通訳にどんなスキルや適性がどの程度必要なのかといったことがはっきり見えていないことに気づきました。通訳がわかりやすい/わかりにくいというのは少し見ただけで直感的に判断できるのですが,それだけでは自分が必要とするレベルに達しているか否かだけなので,その地域で私が依頼できる手話通訳者は誰もいないということにもなりかねません。学術手話通訳のニーズに応えてもらうには,「技術の高い人を派遣してください」とお願いするだけではいけない,自ら養成に関わり,手話通訳者の方たちがそのスキルを伸ばせるような具体的なアドバイスができるようにならなければいけない,と思いました。
「これからは学生も含めて大学のような場で手話通訳がどんどん必要になっていくでしょうから,私たちももっとそれらに応えられるようになっていかないといけませんね」と手話通訳派遣事務所の方が,この困難な依頼を受け止め全面的な協力体制を敷いてくださったことをとても感謝しています。
数年前,このようにして紹介・派遣いただいた手話通訳者の方とOJT的にスキル改善に取り組んだり,県の手話通訳者団体の研修として学術手話通訳を取り上げていただいたりしながら,手さぐり状態で始めた学術手話通訳養成の研究が,このサイトの開設につながっています。
現在の日本において,学術手話通訳について研修を受けられる機会はそれほど多くはありません。けれども高等教育機関や学会の手話通訳依頼を受けることもあるでしょう。そんなときに,このサイトが手話通訳者のみなさまのお役に立てればと願っています。十分なスキルを備えた手話通訳者がいてこそ,ろう者の私たちは「知」の世界に触れ,「知」をつむぐことができます。そんな私たちの伴走者となってくださる方たちのためのサイトです。

  • 群馬大学手話サポーター養成プロジェクト室
  • 関西学院大学 手話言語研究センター
  • 学術手話通訳研修事業